


結局引き返してきた僕は、前出のビデオジャーナリストとともに近郊の住宅地に取材に出た。その時僕らは、バナナ農園の前を通ったのだが、そこには何件かの民家があった。そしてその民家こそ、翌8月13日の朝爆撃を受けたそれだったのだ。

8月13日は、停戦前日にあたり、それだけにイスラエル軍の駆け込み的集中爆撃の規模は凄まじかった。朝からボンボン鳴り響き、せっかく居心地の良い別のホテルに移動したというのに、おちおち寝ていられなくなった。
爆音は徐々に近づきつつある。しかし駆けて行くにはまだ遠い。僕はとりあえず朝食をとり、腹ごなしを済ませた。
そして10時過ぎ。間違いなく自分の取材範囲内だと確信できる程の爆音が響いた。僕はすぐに爆撃地点の視認をし、ホテルを飛び出した。上空には戦闘機が飛び交い(実際にはその音が聞こえるだけだが)、次々に爆音が重なる。街には他のプレスでさえ姿が見えず、それがより一層恐ろしく思えた。
10分も走っただろうか。のろしのように上がる爆煙を目印にしてたどり着いたのは、昨日その前を通ったばかりの民家だった。遠巻きにみている付近の住民以外は、まだ救急隊も到着していなかった。
やがて救急隊が到着し、コンクリート造りの階段の下敷きになっていた青年を引きずり出した。後日分かったことだが、この青年はシリア人で、一人でレバノンへ出稼ぎに来ていたらしい。この一帯に広がる農園のどこかで、働いていたとの事。
翌日には停戦が実現した事を考えれば、シリア人青年の死は、あまりに酷だと僕は思った。そして青年と同じように無念の死を遂げた人々が、約千人いると思えばなおさらだ。


13日の爆撃は午後に一旦ましになったものの、日が落ちてからはまた激しくなり、家々は標的となるのを避ける為に灯りを消した。夜、暗闇の中を活躍するのはイスラエル軍の戦闘ヘリ「アパッチ」で、バッバッバという音とミサイルの閃光、爆音がセットになって街を恐怖に陥れた。
しかしそれも深夜までは続かず(他所では続いていたのかもしれないが)、翌朝はうそのように静かだった。・・・と思いきや、何か朝から騒がしい。しかしそれは爆撃音ではなく、普通の街の喧騒だった。ひょっとして!と僕はホテルを出た。

目の前の海岸通りには、いつになく車がのんびりと、かつ数多く走っている。昨日なら、たまに目にする車は全て猛スピードだったのに。そのまま歩いて大通りに行くと、歩道には通行人が溢れ、人と荷物を満載した車が行きかい、そこかしこで抱擁や握手が見受けられ、歓声やクラクションがひっきりなしに聞こえてくる。

終わったんだ・・・停戦が実現したんだ!僕は確信した。道行く人々に確認もした。ある人は終わったといい、ある人は予断は許さぬという。ある人はこれから南へ帰郷するのだといい、ある人はそれがゆえに道は大渋滞するだろうという。とにもかくにも、とどのつまりは、とりあえずのところ、本当に終わったという事らしい。
僕は一気に気が抜ける思いがした。心から嬉しく思う反面、どうにも不完全燃焼の思いを拭えなかった。「今度もまた、最前線には立たずじまいだ」と。
昨日まで聞こえていた爆撃音の「ボンボン」が、今日からはクラクションの「パパーン」に変わった。長い帰郷ラッシュの行列が、リタニ川を越えようと押し寄せてくるだろう。そして僕らジャーナリストも、これまで行けなかった国境近くに行けるだろう。
僕はこの後の取材こそ大事なのだと自身に言い聞かせ、なんとかホテルに向かって歩き始めた。そして取材道具一式をもって、例のビデオジャーナリストと共に最前線に立ったのは、この数時間後の事だ。戦闘が終わり、プレスだらけになった最前線に。(了)

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